ノミの跡も生々しい洞窟。ここは紛れもなく現代の千葉県です。この空間一体何でしょうか。

 

 

そう『地下壕』です。太平洋戦争末期に作られた軍事施設のひとつです。

 

実は数年前にその名前を知り、ぜひ行くように勧められていながら、なかなか行けなかった、その名前を『赤山地下壕(あかやまちかごう)』というこの場所に奇しくも終戦を思い起こさせる、この夏の時期に自分が訪れるようになるとは思いませんでした。

 

赤い線が地下壕で黄色い線がその中でも見学コースになっている部分です。これを見るだけでも総距離が1.6キロメートルに及ぶ大規模なものであることがわかります。

 

 

この『豊津ホール』が赤山地下壕の受付となっています。私は『Google Map』でこのホールの住所を入れて行きましたが迷いました。『館山市役所豊津ホール』でも行き先は出ますが2017年8月23日時点で案内が正確ではないため若干迷うかもしれません。

 

 

受付をするときに差し出されたのが懐中電灯とヘルメット。いかにも『防空壕』に入る雰囲気になってきました。券売機はちょっと食堂のような感じがして違和感がありました。

 

 

見学を終えて人が数人いましたが、口数は少なく。

気のせいでしょうか。

 

 

さあ、ご一緒に『赤山地下壕』の中へ入ってみましょう。一体何を見ることができるのかな。

 

 

まず中に入って驚くのは、外の空気との気温差。はっきり言って涼しいを通り越してやや寒い。すぐに慣れてしまいますが、かなりの気温差です。トンネル側から外の方を見ると冷気みたいなものが漂っているのが見て取れます。

 

 

光に浮かんで白く見えるのが冷たい空気のようです。この時点で入り口から20メートルほどしか入っていませんが、この温度の差には驚かされます。このトンネルの中はこのちょっと寒い感じで保たれているのだそうです。

 

左側にくぼみが見えますね。一体何でしょうか。

 

 

それがこの答え。それにしても見てください、この湿度。こんなに湿気のある中にいまから70年ほど前に、日本の兵隊が活動したり一部生活していたなんて、にわかには信じられません。

 

 

壁から天井にはモルタルが吹き付けられていますが、これが当時のものなのか、戦後のものなのかは分かりません。でも錆びた鉄筋があちこちに打ち込まれていることから、きっと当時のものなのかもしれないと唸ってしまいます。そこに兵士がいる姿をなんとなく想像させます。

 

 

その先へ行ってみると両側に壁が迫った狭い通路になります。壁に刻まれたノミの跡。人の手で(もちろん削岩機だろうけど)削られたその跡を見ると、何とも言えない気持ちになります。どれくらいの時間をかけてこれらを削り、土砂を運び出したんでしょうか。

 

 

中には地下から水が湧いて出ているところもあり、こうした場所は基地としては使えなかっただろうと思います。今ではポンプによって排水がなされています。

 

 

所々にフェンスで塞がれたところがあり、立入禁止になっています。ぼくはこういうとき、なんとか許可を得てその向こうへ入るフォトグラファーになりたい、とか余計なことを考えてしまいます。でもそれは大事なことなんじゃないかと思います。今記録を撮らなければ今度いつそのチャンスがやってくるのかわからないからです。だからいつもそういうことを考えます。

それにしても、この壁の模様を見てください。つまりは地層なんですね。赤山地下壕のパンフレットの初めのほうが戦争のことではなくて地層を勉強しよう、みたいな雰囲気だったのでちょっと戦争の時代から一気に現代へタイムスリップした気持ちになりました。

 

 

さて、この2つのくぼみは、更に当時の兵士たちの営みをかなりリアルに感じさせました。案内板のあるところがつまりベンチで、その向こうのくぼみに電話のコードを巻いて勤務していたそうです。そこに座っていたんですよ、実際に。ぼくはふざけてもそこに座る気にはなれませんでした。

 

 

こちらはなんとトイレ。下に桶(おけ)が置いてあったのだとか。う~ん、生々しい。。。

 

 

そんなとき、突然に人が現れるとびっくりしますよね。ぼくを見て『きゃー!』なんて言ってました。なぜびっくりするんでしょうか。ぼくは一人でここに来ているからですね。

 

 

この地下壕を観察しながら写真を撮っていると、大小様々な通路があるとことに気が付きます。しかもその全てが一定ではなく、バラバラのような気がするのです。なぜなんでしょうか。終戦が間近い混乱の時期に作られたからなのか、たまたまなのか。今となっては本当のことは分かりません。

 

 

この大きな部屋は士官たちの部屋だったと言われ、奥の四角い部分は『御真影(ごしんえい)』(天皇の肖像)を安置した『奉安殿(ほうあんでん)』(御真影を安置する場所)だったということです。今の若い日本人にとっては、日本軍が御真影を持って闘っていたなんてことは信じ難いかもしれませんね。だってもう戦後70年以上ですもんね。

 

 

ぼくが一人で現れるものだから入ってきた人はほんとにビビってました。無理もないです。ここは戦争遺跡。かつて日本人が外国と闘った際に多くの兵士が走り回ったであろう場所ですからね。

 

さあ、ここが終点です。なんだかなぁと感慨に浸っていると、またまた現代に引き戻されるような地下壕の事実が。

 

 

なんとお風呂があります。実は説明によると、戦後は忘れられた存在だったのが、昭和30年代ころにはこのトンネルの中の温度が一年中変わらないことを利用して、キノコの栽培に使われたのだそうです。館山のお友だちに聞いたところ、ここで作られたシメジをいただいて食べたけど美味しかったとのこと。ほほう。

 

 

この空間はコンクリートが吹き付けてあって、いかにも栽培が行われていたことを感じさせるものでした。いや、本当に涼しかったです。あの明るい出口の向こうには道路や人家があり、車が通り過ぎる音がしていました。手前は戦時、向こうは現代。不思議です。

 

 

さて、出口に向かうとワイワイ人が入ってきました。このスポットは知る人ぞ知る戦跡なのでしょう。でも、みんなどうやってここを知るのかな。この貴重な戦争遺跡をどう伝えていくのか。地元の人々のみならず、ここを訪れた人が忘れないで、もっと伝えていくようにするにはどうしたらいいんだろう。

そんなことを考えていたらキリがないので、この防空壕を出ることにします。

 

 

出口にカメラを向けるとここへ来たときに迎えてくれた冷気がそこに漂い、ぼくに何かを教えてくれたような気がしました。ここで命を落とした人がいたのかどうかは分かりませんが、当時『お国のため』に、ここで懸命に働いた人々がいたことは確かなこと。その事実が自分にどんな行動を促すのかわからないけれど、少なくともここに行ってみたい、という動機があったことは事実。

それを写真に収めたことも事実。

『赤山地下壕跡』。それは貴重な時代の静かな証言者であることは確かな事実のようですね。

 

 

By

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.